芥川賞受賞の話題の作品。
タイトルからゾクッときたことや勧められてAmazonから購入してみた。
一言で言えば、”私はこうなりたくない”だった。
ネタバレ有
この話は、主人公の「あたし」のように推しが燃えている人間が読めば共感祭でそれはそれは朝まで討論が出来るから一種の感情移入ができるような話かとばかり思っていた。
実際、「あたし」も自分も推しという存在に確立されるまでには三歩進んで二歩戻る微妙な距離感があること、自分の推し以外のファンの言葉にも内心傷つく場面や、どこか見方に執念すら感じるところは共通点にある。もちろんブログを書いているところも共通点だ。
最も自分は「あたし」ほど、情報や発言にこだわるタイプではない。
グッズは欲しいものしかいらないし、CDを50枚買いたいとは思わない一形態で満足する。それよりも、可愛いもの・綺麗なものとして所謂「可愛い生き物」として”アイドルの時の彼”を可愛がるに徹しているところが大きな違いとして主張したい。その代わり無いなと思ったもんは徹底的に無かった事にする。ここでも、
アイドルとしての関わり方は十人十色
が挙げられるのだろうか。
しかし、肝心なのは推しが燃えたという話ではない。
この話の面白い所は、
発達障害の影響で生きづらさを抱える主人公の「あたし」は
生きづらさのはけ口として応援している人がたまたま炎上した。
というところにあるのではないだろうか。
「あたし」が応援していたメンバーカラーが青の真幸(みゆき)くんが燃えたことは状況展開の一つ程度に過ぎなく、メインは最初から最後まで「あたし」だ。
「あたし」にとって真幸くんは人生の全て、作品内では背骨と表現される。
残念ながら、それでも毎日は過ぎていく。推測だが「あたし」がいつまでも真幸くんの行動を考えていても長くて1週間すれば大体の無関心な人間は忘れていく。他の人からすれば平日に過ぎない。
ワイドショーが話題にするのが1週間でもまぁ長いかもしれない。自分の経験談として実際そんなもんだ。
何ら自分の自担がパクられた次の日の空は、自分の感情にシンクロして雨が降るなんてお洒落なことはなく、ムカつく位の晴天だったことを今でも鮮明に覚えている。
「あたし」にとって中心でいられるのは「あたし」。自分以外の他ならないのだ。
「あたし」は「あたし」であるように当然「推しくん」には「推しくん」の人生がある。
例え似ているところがあろうと推しにはならないし、特に人生を重ねてはいけない。
私の場合は推しに性格が似ていたら純粋無垢が過ぎて痛い人になりかねないので似ないで欲しいと思うからこそキツく思うのかもしれないが...。
とにかく推しを全ての理由の言い訳にして放棄してはいけない。
推しがいるから仕事頑張れる。というのは理に叶ってはいる。
実際に「あたし」のネットで繋がっている友達もそのようなタイプだった。何なら「あたし」のバイト中にあと何時間働いたらCD一枚分というのは自分も考えることだ。
問題なのは、生きにくいから推しに縋り付くこと。推しにすがりつくことで、生きていることから逃げの場となっていること。生きづらさから逃げるための手段と化していること。全ての言い訳を「推し」にする事。
ネットで有名な國府田マリ子コピペの令和版を読んでいるような感じもした。
声優の國府田マリ子さんが結婚したときに発狂して書いた話が名作化されているものである。結婚も炎上も内容は違うが、結婚して発狂して虚無になるオタクも炎上して”背骨”がバラバラになる「あたし」も末路にたどり着くまでの工程は大して変わらないようにすら感じる。
メン地下オタの「あたし」の友達は二重整形もした。
が、学校はやめていない。推しがいても学校は続けることはできたはずだ。
仕事だってできたのではないか?
診断書が「あたし」には出ているが、他の人も言う通りADHDとLDだろうか。
わかってもらえる人が彼女には必要という声もするし共感しかない。
現状わかってくれたらラッキーな世界。実際何とも言えないし、ネットの世界の理解ある優しい人間と理解のある彼くんは実際どこに住んでいるのかを疑問にすら思う難しい問題だ。
発達障害は残念ながら、私も抱えている。他に生きにくさを自担くん・推しちゃんのいるグループの曲で元気が出るなんて話はラジオを何年も聴いていたら頻繁に聞く。
特に中高生なんてこういうメール書く人特に多いし自分も例に漏れない一人ですらあった。
だけど、それで学校辞めるとか大学受験の勉強を邪魔することの正当な理由になるかと言われたら違うのでは?結局都合よく推しを利用してるだけだ。
運よく祖母のおうちが用意されていない完全な一人暮らしならどうするつもりだったの?
これは、自分が大学一年の時に自担がパクられたことで鬱拗らせて一年のGPA0.28という驚異の数値叩き出してるので尚更疑問に思ったこと。何なら立派な家がある設定にこっちがうらやましくなってしまったほどに。
自担がパクられてもファンの自分にも前科はオマケで付かない。何か世界一邪魔なオマケだ。
ショックだったり、これがないのは自分じゃない!とか思ってもそういう理由で全部のことは許されないし上手くみんな動いてはくれない。
そして極め付け。
「あたし」は真幸くんの嫁らしき人が洗濯物を持ってくる姿を目撃して話は終わる。「推しくんの嫁にしては不細工やなぁ もっと顔いい人かおっぱいでかい人選べよ A○女優の方が綺麗だし上手いのになぁ」「クソ?」みたいに女を理不尽に責めるのは、まぁ分かるのだ。ぶっちゃけそれがドルオタの醍醐味だと思っているし、私だって近くに引っ越してきたら引っ越しおばさんになるのが目に見えるからだ。
思った。
「え?責めるのそこ!?」
生きにくいことのはけ口にしていた真幸くんのせいにして彼もバイトや家族関係のような生きにくいものを作るひとつとなってしまった。そして残ったものは何もない。
最後に女を殴る真幸くんと自暴自棄の自分を重ねるが、殴った真幸くんは無事燃えているので、彼同様良い事無しで何にもならないのはわかり切っているはずだ。
逃げるだけのはけ口の手段、業(ごう)としてすがりついて投げ出した結果、残されたものは
もう何もない。
なぜ あたしは普通に、生活できないのだろう
推しを追うことで、初めて普通の生活をできていたと思い込んでいただけではないのかと思う。
彼女以外の登場人物の何かしらのファンは、推しを追っていてもしんどくても、寝込んでも担降りをした際にはここまでの虚無に追われることは流石にないはずだ。
もう最初から普通では無いのかもしれない。
「あたし」は四歳の時にみたピーターパンの映像を見たら今どう思うのだろうか。あの当時の純粋な気持ちで見た推しはもうなくなってしまったのだろうか。後半から徐々に義務的になっていないだろうか?好きとか嫌いじゃなくて手段とでもいうのだろうか。
収入一気に減って来年の税金払えなくなったりなんだりで活動再開をもしも真幸くんがしたら「あたし」は一体どうするのか。バラバラになったにも関わらず騙し騙しで背骨として結局また惰性でファンを続けていくのか。正直地獄だと思うが...。
果たして「あたし」はファンで楽しかったのか。「あたし」はきっと真面目なのだろう。自分は発言全部まとめるとか超怠いからしないし、好きJrがドル誌表紙の時しか雑誌は買わない。
「〜しなければならない」みたいな強迫性さが無い?自分の好きな範囲で本当に楽しめた?
いつも、自担か?一般人ですよ、他にいたらクローンと陰謀論です。
と全てなかった事に自分はするが今回は真面目な話。
自分の自担は「あたし」よりもずっとマズい自覚があるが自分が7歳の時にビジュアル印象残したDON'T U EVER STOPの自担や8歳の時のRESCUE、5人時期の楽曲、野球の中継曲、TFM系列のラジオ等、今でも本当に好きなものは好きと口に出さずとも思える事になんか自分が誇らしくなった。
KISS KISS KISSの欲しかった形態をやっと買ってCPの名曲と歌詞カード内のビジュアルの質が良くて生気を感じない白肌にご満悦をたった昨日したばかりだ。
自分の要らんモンは基本見ないを徹底しているのもあるが、
私の推しがたとえ大炎上しても好きなものは楽しく見られるのは
根本的に楽しめる範囲で自分が活動できているからだ。
中途半端なホラー小説よりも表現も情景も生々しい。
「あたし」に近いところが沢山あったからこそ、尚更自分はこうなりたくないと実感する。