久々に自担の話でもしよう。
このブログは零細でちいさいものだが、
ネットニュースで"自担であったらしき何か"が出るとほんのちょっとアクセスが伸びている。 本当にちょっとだが。
ネットニュースに敏感なフォロワーや家族がいる為嫌でも入ってくるから分かるのだが、
彼のやること一つ一つには吐き気を催すものが増えてきている。何も知らない人は言う。
やってんなぁ、と。
しかし、吐き気のレベルが上がれば上がるほどアクセスは減っている。
人は呆れられて無関心が1番応えるものだ。
ざまぁと思うと同時に、どこかで自分の好きな物は本当はなんだったのかと考える機会が改めて与えられた。
突然だが、
なんJの巨人小笠原を知っているだろうか。
終身名誉死刑囚でキンタマ命。下劣な行為をする畜生で死んでは生き返る。渾名はカッス。
死んでも惜しまれないのも特徴だ。
ネタキャラなのだが、どうもカッスに存在が重なって見えるのは気のせいではないだろう。
現在巨人でコーチをしている現役時代の渾名がガッツの小笠原道大とは別人なところも特徴だ。カッスは架空のキャラだからだ。架空のチーム大正義巨人軍のカッスだ。巨人軍では実在の物になってしまう。大正義巨人軍までが名前だ。
私の好きな自担に自担だったらしき何かを重ねるのはガッツとカッスを同一視する事と同じくらいナンセンスだ。ファッキューカッスがわかる人ならば、そんな人バカもいいとこだ。
スタイリングの質も衣装もメイクのクオリティも天と地の差がある。
気品がある人とド田舎で中古か型落ちのランクルかJeep乗り回すようなイキリのまま大きくなってしまったみすぼらしいオッサンと重ねるのはナンセンスだ。
クラウンBMWアウディ系でもベルファイヤ系でもベンツ系でもなく、間違いなくランクルJeepタイプだろう。
何が基準かは分からないが、顔に書いてある。
ルイ・ヴィトンのモノグラムのテキスタイルをパクったSHEINの商品で高見えとやることも現象として同じだが結局モノグラムパクったSHEINでヴィトンではないのだ。
コンクリートのガラスはガラスであってダイヤモンドでは無いのだ。
だからこそ、自分の好きな物が侵食されている今だからこそ私はこれが好きだという明確な気持ちを持ち、書ける場があるならこうして書いていこうと思っている次第だ。
今はもう吹っ切っている為、同一視しなくたっていいんだよと伝えていきたい。素敵だった人とカッスを一緒にするのはナンセンスだぞ、ファッキューというエゴもある。
頭がおかしい人なのも自覚しながらもこのエゴは強く、1種の使命感すら感じている。
過去を愛しているからこそ今のいなくなった体制の物も受け入れて前に進めるかもしれない。純粋に好きになれるかもしれない。
ファンを続けるかは自由だが、辛くて見れなくなることは勿体ないと思うのだ。
せっかく好きだったのに。
それ以外にも、最近好きになった人が過去の映像を買った時に顔も見たくない3人の邪魔!と思ったら悲しい気持ちもある。最近だとジャにのちゃんねる出身の人がちょっと増えた。
これも先程のエゴと大して変わらないのだが、好きになってくれとはとてもじゃないが言えない。そんなもの上から目線だ。
何かしらあってファンが他界しまくった時に残った人が戻ってきてくれと言う人も稀にいるが現実が見えていない上から目線だ。
理由があるから他界をしまくったというのに。上から目線の人の話を誰が聞きたいと思うか。考えたら誰でもわかるだろう。
理想としてはこんな奴いたんだ〜位が幸せだ。好きにならなくてもいいけど嫌いにはなっては欲しくない。こんな人いたんだと言うだけでいいのだ。そこからたまに綺麗だね〜位でも本当は大満足だ。人は多くのものを求めてしまうが、結局これだけで満足なのだ。
もちろん言いたいことは沢山ある。
このブログですらもあった。
今でも書きたくてうずうずしている程だ。
だが、忘れては行けないのことは
人には人の価値観があること。
実際、新規気分であの頃の動画は何が最初に上がるかを動画サイトで調べてきたが超正統派やとても好きなものだった。動画サイトも私の味方をしてくれている。これは勝ったも同然だ。
環境は整っている。
綺麗だね〜。これだけで勝ちなのだ。
忘れては行けない。
そして、気付けば歳が同じになってしまった。
このブログではおなじみのこれと。22。
これ以外にも好きな物は沢山あり、
寧ろ黒髪のセンターで黒衣装のゴシック系や、
人気のある2015年くらいの黒髪で重たいふわふわの前髪がある方や造形に無駄のないデビューしたての頃が1周まわった今好きなのだが思い入れだとこれと次の表題がずば抜けている。
ちなみに鉛筆位加賀蘭丸が私は地雷です。
話すとキリが無くなる。
今こうして生きているのは元気を貰っているから。30位には自殺失敗で植物人間か自殺くらいするかと思っている。まだ22?もう22だ。 悪いけど、昔と違ってどうにかなるものではないのだ。だからなんと言われようとさっさと死ぬ事を変える気は無い。
だが、30な辺りこれは私にとっての延命治療なのかもしれない。まだ生きていたいという気持ちが残っているのかもしれない。
それを気づかせてくれる。
だから人前では公言せずともどこかの場ではこのように大切にいる気持ちを上げようという気持ちになる。
自分に正直になるのが今後の課題なのかもしれない。
私がこんな人だからこそなのだろう。
だから尚更助けて貰っているだけじゃいけないと思うのかもしれない。
だから面目上"担"にしている。
事実上の箱だが。
成功体験が元々少なく自己肯定感は低い。
人の顔を伺うのが得意な人の為明るく物事は
考えられないが昔よりはマシな気がする。